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プロフィール

私、西尾昌也(にしおまさや)のプロフィールです。基本インドア系ですが、イベントなどによく顔を出します。

経歴

京都府京都市西京区出身・現在同区居住。1974.11.21生(38歳)

京都白百合保育園−樫原小学校−樫原中学校−桂高等学校−滋賀大学経済学部−S社バイト−K社(S社関連会社)社員−S社員(2013.3.15まで)−転職活動中

作業環境

OS Windows XP/7。ADOBE CREATIVE SUITE 4/5(WEB)、InDesign CS4/5、Adobe Creative Suiteを所有。

会社では、OS Windows 2000/XP/Vista/7。ADOBE CREATIVE SUITE 2/4/5(Design)、InDesign 2.0/CS3で作業

趣味など

大学時代はユースホステル部渉外局長。登山や旅行、キャンプなどをクラブ活動で行う。

休日は、美術館や博物館に足を運ぶ。平日は裁判の傍聴なども。

懐メロ(軍歌、戦後歌謡〜フォークまで)好き。読書は年200〜300冊ほど、ノンフィクションが多い。

その他

太り始めてから、お兄ちゃん(花田勝)と言われることが多くなりました。

「クルマ社会を問い直す会」会員。クルマの個人所有を極力避ける考えです。未だに普通免許を所持していません。

「勁版会」会員。時々顔を出してます。

文字好き。活版や古い印刷物を見つけると、周りが見えなくなります。

弁護士志望だったこともあり、裁判傍聴や司法関係の雑誌はよく読んでます。

ゲゼル理論信者。現在の資本主義経済に疑問を持ってます。

好きなスポーツ選手

引間克幸(1981-88、阪神)

「代走!引間」にしびれました
1980年代、代走と言えばこの人です。ウエスタンリーグで2度の盗塁王に輝きました。安藤政権時によく使われていた記憶があります。幼かった私は、代走という役割に妙な興味を持ったものです。「代走、引間」というフレーズが何かかっこよかったです。バッティングはいまいちだったという記憶しかありません。代走でそのまま内野の守備について、打順が回ってきて仕方なくバッターボックスにといった感じでした。後で分かりましたが、スイッチヒッターだったようです。しかも、本塁打が1本あったようです。引間のホームランというのは想像が付きませんが、恐らくランニングホームランか、木戸選手のような、ライトポール際ぎりぎりでラッキーゾーンへのホームランのような気がします(勝手な想像ですが)。生涯盗塁数はわずか11。代走という役割は、盗塁があるとわざわざ相手投手に伝えているようなものですので、盗塁することはかえって難しいかも知れませんが、それでも少なすぎるのでは?と思います。

笠間雄二(1977-84、巨人、阪急、阪神)

私が物心ついたときのキャッチャー
捕手と言えば、まず最初に目に浮かぶのがこの選手。特に注目すべきは、巨人出身であること。巨人出身の選手で阪神に来て活躍した選手と言えば、小林、広沢ぐらいしか思い浮かびません。1983年にレギュラーを獲得し、打率.271本塁打12打点41の活躍。オールスターにも出場しました。しかし、1985年の優勝を待たず引退。木戸選手に比べて、バッティング・キャッチングがうまかったイメージがあるんですがどうだったんでしょう。引退の経緯なんかも、調べてみたい選手ではあります。最近は、渡辺省三さんの問題で名前が挙がるなど、悪い意味で有名になっています。

佐野仙好(1974-89、阪神)

地味だけど、勝負強い6番バッター
10年間レギュラーだったことを考えると、1流半ではなく、1流と言えるのですが、なんというか非常に地味な選手でした。毎年10〜15本塁打50〜60打点という活躍も地味ですが、今ではタイトルとして扱われることさえない、『初代勝利打点王』が唯一のタイトルというのも地味です。私が生まれた年にドラフト1位で入団。掛布と同じ年に入団でした。その年阪神の目玉選手として、三塁手として、派手な活躍が期待されたましたが、掛布がいたために77年外野手に転向することになります。結果的にはこれが良かったのですが、この年にフェンスの材質を変えるきっかけになったことで有名な川崎球場フェンス激突事件がおきてしまいます。佐野といえばこのガッツあふれるプレーを思い出す人も多いですが、おかげで瀕死の重傷になりました。しかし次の年からレギュラーとして定着し、1番・3番・6番バッターとして活躍しました。イメージが強いのはやはり優勝時の打順でもある『6番佐野』でしょう。勝負強いバッティング、腰をクイッと上にあげた打撃フォーム、ズボンのポケットからはみ出ている手袋は職人という感じで格好良かったです。村山政権で少年隊が結成されレギュラーから追われてからは、主に代打として渋い活躍をし、引退後はスカウトというこれまた渋い役職に就きました。

御子柴進(1983-97、阪神)

鼻が特徴的でした
小林二世といわれた事からわかるように、アンダー気味のサイドスローの投手。私の印象は『便利屋』といった印象。敗戦処理を任されたり、ロングリリーフを任されたり、葛西がヤクルト戦に強かった時は、同じサイドスローだからヤクルト戦に使えるのではという理由で先発をさせられたりしました。そう多く先発したわけでもないですが、「中日キラー」といわれていました。ただ、時々すばらしいピッチングをし、期待していなかった時に完投勝ちや完封勝ちを収めたりするなど、不思議な投手でした。ローテンションの谷間が出来ると、いつも御子柴が先発してる印象があります。阪神ファンの中にも不思議と熱狂的な御子柴ファンが存在し、地味なのか有名なのか本当に分からない選手でした。しかし、暗黒時代のサイドスロー投手軍団の一員としてチームを支えてくれたことだけは確かです。

久保康生(1977-97、近鉄、阪神、近鉄)

暗黒時代、期待の速球ピッチャー
近鉄時代は速球投手として、阪神時代は三振が取れる中継ぎ先発として活躍。この投手も不思議な投手でした。90年代前半の阪神はサイドスロー軍団で速球投手がいませんでした。技巧派(変化球主体の投球)の集まりでした。速球投手だった仲田もコントロールを意識するようになって140km/hを切っていました。唯一145km/hの速球が投げられるピッチャーが久保選手だったと記憶してます。35・36のそれもトレードで移籍してきたおじさん投手が阪神で一番三振が取れて早い投手だなんて、阪神のドラフト戦略・育成方針は一体どうなっているんだ?と首をかしげたモノです。阪神ファンの期待の星、久保投手は、先発中継ぎ抑えとしてフル回転して活躍しました。先発したある試合では5回まで10奪三振を奪い、「まさか日本記録か?」と期待させてくれた投球もあったような(記憶が定かではありませんので)。先発で行くのか抑えで行くのかはっきりしていればもっといい成績が残せたのではとも思えます。ウエイトトレーニングで鍛えた肉体はすごかったらしく、若手選手も手本として見習うようにといわれていました。このトレーニングのおかげで、39歳まで現役を続けられたのではと思います。

山崎一玄(1991-2002、阪神、近鉄)

若手の成長株と言われ続けました。
やせ形で、顔つきがシャープなため、女性からの人気が高かったです。当時の関西ローカル番組で、ブレイク前の藤井隆や大桃美代子が出演していた毎日放送の「テレビのツボ」の司会者『ぜんじろう』によく似ていました。阪神期待の速球ピッチャーでしたが、巨人戦で先発した時に江川卓から「バッティングピッチャー」と酷評されるなど、他球団から見るとどうやら普通の投手だったようです。94年に7勝6敗1S 防御率3.20規定投球回到達と、他球団ならもう少し勝ち星が・・と思える活躍をするものの、以後は中継ぎが中心になりとパッとせずに沈んでいきます。それなりに落ちるフォークボールとMAX140km/hとそれなりに速いストレートで調子が良い時はそれなりに抑えてくれました。毎年、先発候補、期待の若手として挙げられることが多かったのですが、94年以外は先発することは少なかったです。どちらかといえば、2点差で負けている時に中継ぎとして登板し6回から9回まで0点に抑えるものの、チームは負けるといった具合に、チームが負けている時によく抑えるイメージが付いています。阪神が逆転勝ちが得意な打撃のチームであれば、貴重な中継ぎだったに違いありませんが、いかんせん打撃陣はボロボロでした。このことが、山崎投手にとっての悲劇だったのでしょう。当時は、意味のない活躍するなぁと思っていましたが、2003年阪神優勝の勝利パターンを見ますと、負けている時に追加点が入らないことがどれ程に重要なのか、山崎投手が以下に貴重な選手だったのか今になって痛感させられます。体が細いせいか、私にはカマキリのような投球に見えましたが、皆さんにはどう映ってましたか?

福永祐一(JRA)

福永洋一の息子として
きまぐれジョージの天皇賞騎乗、9年連続リーディングに輝くなどで『天才』の名を欲しいままにした福永洋一。彼が不慮の事故で競馬界から姿を消したのが1979年の毎日杯。洋一が乗ると、走らない馬でも走ったとも言われ、不世出の天才として今でも語られる洋一とは何者か?残念ながら、私は彼の騎乗を生で見たことはないが、本やインターネットの情報からも彼が偉大であることはわかる。そして生で見てきたおじさん世代にとって彼はスターであった。その息子・祐一。競馬場に足を運ぶと、そのおじさん世代からの応援も多い。時には、「祐一は騎乗馬に恵まれすぎている」「上を目指すのであれば、もっと結果を恐れない騎乗をしなければ」など厳しい意見が飛ぶ。しかし、彼らの目を見ていると、まるで息子を見る親のように、優しい視線であるのはなぜか。なぜか憎めない男・祐一。彼の実像に迫ってみたいと考えた私は、競馬場に久しぶりに足を運ぶようになった。
福永祐一の魅力
「ヘタレ」「コネ野郎」と厳しい意見が出る。しかし、同一人物が「重賞勝利おめでとう」と言う。祐一は不思議な魅力がある。父・洋一は確かに天才だった。誰も異論はないだろう。しかし、祐一はお世辞にも天才とは言えない。ダービーでのキングへイローの騎乗など、未熟な一面も見せる。世の中に、完璧な人間などいない。人間が弱いところを見せると何か人間くさく興味を惹かれる。私は、弱みのある人間が好きなのかも知れない。私が好きだったのは、野球では万年最下位「阪神」、大相撲では横綱で負け越した「大乃国」、そして競馬では「福永祐一」。ヤジを飛ばしながらも激励をおくることが出来る人たち。そうだ、何かが欠けているからいいんだ。私は、完璧な「福永祐一」を好んでいるのではない。一流に届きそうだが、あと一歩でとどまっているからいいんだ。リーディングジョッキーになって欲しいと思いながら、なってくれるなと思う気持ち。優勝して欲しいと思いながら、優勝するとうれしいのになぜかここの奥底で複雑にある気持ち。言い換えれば、親と息子の関係ではないだろうか。親は、息子に自分を超えて欲しいと思いながら、超えられるとなぜか息子に嫉妬する。祐一の魅力はここにあるのではと思う。ファンはひとりひとり洋一になって、息子・祐一を見守ってるのではないだろうか。祐一を怒りたくて仕方がないんじゃないか。これが、武豊には出せないが祐一には出せる魅力のひとつだと思う。